Le régiment H ─ル・レジマン・アッシュ─

台湾・高雄市から土方歳三と榎本武揚を想いつつ、幕末と江戸時代ににまつわる話題を書いています。

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晩秋の多摩

くにたち郷土文化館に特別展「幕末から自由の権~本田家の人々が見た時代」を見に行った後、府中の大国魂神社にお参りしました。
大國魂神社の鼓楼
上の画像は大國魂神社の境内にある、嘉永7年(1854年)に再建された鼓楼と天保年間に奉納された燈籠です。
勇さんの天然理心流四代目襲名披露の野仕合が大國魂神社で行われた時、この鼓楼と燈籠を野仕合に参加した歳さんは目にしていたはずです。

くにたち郷土文化館はJR南武線矢川駅から徒歩10分ぐらいのところにあります。
矢川駅から南に真っ直ぐ伸びている通りを歩き、しばらくすると東西に走る甲州街道と交差し、更に南下します。
甲州街道から南の通りの名前は「石田街道」です。
矢川駅に貼ってあった地図で「石田街道」を見つけて、もしや…と思い、手持ちの地図で調べたら、やはり歳さんの故郷・石田(村)の方向に伸びている道でした。
リンク先の地図のほぼ中央、甲州街道に「矢川駅入口」の目印がついていますが、そこから南に伸びている通りが石田街道です。
通りは多摩川の土手にぶつかって終わってますが、川の向こう岸は日野市石田です。
歳さんは下谷保村の本田覚庵を訪ねる時は、きっとこの道を通ったんでしょうね。

くにたち郷土文化館の特別展「幕末から自由の権~本田家の人々が見た時代」の概要は以下の通りです。(斜体の文章ははサイトから引用し、一部訂正しました)

下谷保村(国立市)の名主であり村医者でもあった本田家の覚庵・定年親子の日記を軸に、幕末から自由民権運動期の国立とその周辺を探ります。
本田覚庵は、文人としても広く近在に名を知られ、また新選組の近藤勇・土方歳三とも深い親交があり、2人の名前は覚庵の日記にもたびたび登場します。
またその子、本田定年は自由民権運動に身を投じ、「武蔵野叢誌」発刊に深く関わり、後に近藤勇の首級を探す放浪の旅に出ます。
幕末から明治に至る激動の時代、多摩に吹き荒れた風に本田家の人々はどのように生きて向かったのか、本田家に伝わる資料を通じ展覧します。


この先は見に行ってから一週間後に書いている上、図録を買ってこなかったので、あやふやな記憶を頼りに書いているので、間違っているところがあるかもしれません(大汗)

展示は本田覚庵の先代までの本田家の歴史、本田覚庵について、本田覚庵と交流のあった人々について、本田定年についての、4ブロックに分かれていました。
本田家は自宅・所蔵資料が非公開なので、このように本田家の資料が一挙に公開・展示されるのは貴重な機会なのかもしれません。

下谷保村は石田村と同じく、伊豆韮山代官・江川太郎左衛門の支配下の天領でした。
下谷保村の名主であり、村医者だった本田家には江戸時代の医学書が多数所蔵されているそうで、かの「解体新書」が展示されていました。
また、本田家にも石田散薬@土方家のような家伝の薬があったそうです。
薬の名前は失念してしまいましたが、妊娠中や出産後の女性向けの薬で、石田散薬のように酒ではなく白湯で飲みます。
現在以上に一人当たりの出産の回数が多かった、江戸時代の(多摩の)女性はこの薬をよく飲んでいたのでしょう。

「(本田)覚庵日記」として紹介されることの多い、本田覚庵の日記は1860年から1863年に書いたものが残されています。
この日記に本田家を訪れた歳さんや勇さんがたびたび登場します。
日記に登場した多摩の名主や文化人の名前・地名のリストが展示されていて、歳さんは10数回と登場回数は多いです。(ちなみにわが地元の地名もありました)
歳さんは「石田年蔵」として登場しています。
昔の人の名前は呼び方は一つでも、何種類も表記があることが多いようです。
歳さんの場合は「歳三」の表記は上洛してからのもののようで、多摩郡にいた頃は上記の「年蔵」や「歳蔵」(←石田村の宗門人別書上帳より)、「俊蔵」と表記されているそうです。
呼び名「トシゾウ」に漢字をそのつど当てた感じです。(あくまでわたしの推測ですが)

歳さんが本田覚庵に送った手紙は(現存して)ないそうですが、わたしが小島資料館で見られなかった、京と大坂で芸妓にモテまくり自慢の手紙が、ここに展示されていました。
小島資料館がくにたち郷土文化館に貸し出したようで、思いがけずモテ自慢の手紙を見られてラッキーでした(笑)
また、歳さんが小野路の橋本道助の長男の誕生祝に書いた漢詩の掛軸と、新選組を結成した頃、勇さんが小島鹿之助に書き送った漢詩の掛軸も展示されていました。
勇さんの掛軸は佐藤彦五郎新選組資料館でも見たことがありましたが、歳さんの掛軸を見たのは初めてでした。(というより、これしか現存していないのかも…?)

本田定年は本田覚庵の息子です。
覚庵の死後、覚庵の後を継いだ兄が早世し、定年は1868年に15歳で下谷保村の名主になります。
若き定年は江戸から明治に移り変わろうとする新しい時代に期待を寄せました。当時の定年の書いた漢詩には「自由ノ権」というフレーズがあります。これは一般人が書いた文章に登場した「自由」の初期の使用例だそうです。

やがて、戸籍法の制定・改正により定年は下谷保村の戸長になり、戸籍事務・民政一般の事務を行いました。
江戸時代、ほとんどが天領(幕府領)だった多摩地方は、薩長に牛耳られている明治新政府に危険視され、いくつかの県に分断されました。
そして、定年が期待したほど、多摩の地には「自由」の風は吹かなかったのです。
そのような状況が定年を自由民権運動に身を投じさせたのです。

展示会場には、定年が発刊に深く携った、多摩で最初の定期刊行雑誌「武蔵野叢誌」の原稿が展示されていました。
びっちりと赤い字で修正が入った原稿を見ていると、今よりもずっと言葉に重みがあった時代、多くの人々に向けて自分の主張を発表するために、原稿を何度も推敲し、文章を磨いていったのを感じました。

この特別展の図録が売られていましたが、お値段がちょっと高めで、所持金もあまり持っていなかったので(汗)買いませんでした。
でも、ブログに感想を書くにあたって、ケチらないで図録を買えばよかった…と激しく後悔しました(苦笑)
でも、無料でこれだけ充実した展示が見られて(歳さんの手紙も見られましたし)満足です。

その後、冒頭に書いたように府中で途中下車して、大國魂神社にお参りしました。
大國魂神社に行ったのは5月のくらやみ祭り以来です。
くらやみ祭りの時は予想以上の人出の多さと、参道と境内に並ぶ露店の多さに目を見張るばかりでしたが、今日は日曜日にもかかわらず、お参りする人の姿もまばらでした。

年を重ねるにつれて、神社やお寺にお参りすると気持ちが癒されるようになりました。
前の勤務先の程近くに富岡八幡宮があったので、仕事帰りによくお参りしましたが、今の勤務先の近くには富岡八幡宮のように江戸時代からの歴史のある神社がないのが残念です。

今年の新選組・幕末関連スポット巡りはこれが最後になるでしょう。
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まやこ

Author:まやこ
2月27日生まれのうお座・AB型

舞台や展覧会を観るのが好きで、仏蘭西と西洋史をこよなく愛する歴女です。(や○い・BLは好きではないので、腐女子ではないようです(笑)

2006年の元旦に「新選組!!土方歳三最期の一日」を見たのがきっかけで新選組副長、土方歳三のファンになり、幕末の世界に足を踏み入れ、全身どっぷり漬かっています。
土方歳三だけでなく、榎本釜次郎武揚、小栗上野介忠順、中島三郎助も贔屓にしています。
彼らの足跡を追って、山の奥や海の彼方にも行きました。

ブログのタイトルは仏蘭西語です。意味と由来はこちらをご覧ください。

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結婚に伴い、長年住んでいた武州多摩郡某村(甲州道中沿い)から武州久良岐郡(横浜市南部)に引っ越したが、2014年6月に夫の仕事の都合で台湾南部の高雄市に住むことになりました。

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