Le régiment H ─ル・レジマン・アッシュ─

台湾・高雄市から土方歳三と榎本武揚を想いつつ、幕末と江戸時代ににまつわる話題を書いています。

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世田谷の幕末史跡めぐり

今日、世田谷若林の松陰神社と松陰神社通り商店街で開催された、「第15回萩・世田谷 幕末維新祭り」に行ってきました。

その前に下見を兼ねて、今のところ平日も体が空いているのをいいことに、木曜日(10月26日)に松陰神社~豪徳寺~世田谷代官屋敷を見て回りました。
わたしは「武州多摩郡某村」もとい世田谷区在住です。
長年世田谷区に住んでいるにもかかわらず、松陰神社と豪徳寺に行ったのは初めてです(汗)

松陰神社

松陰神社はその名の通り、吉田松陰を祀った神社です。
なぜ若林に吉田松陰の神社があるんだろうと、幕末に興味がなかった頃から思っていましたが、こんな事情です。

安政6年(1859年)吉田松陰は江戸の伝馬町牢屋敷で処刑され、29日に小塚原回向院に葬られました。
その後、文久3年(1863年)に高杉晋作、伊藤俊輔(博文)ら吉田松陰の門下生らが、武州荏原郡若林村の長州藩若林抱屋敷内に改葬しました。
長州藩若林抱屋敷は、延宝2年(1674年)に長州藩二代目毛利綱広がたびたびの江戸市中の火災に悩み、旗本志村氏の荏原郡若林村の知行地を買い取った土地で、18000坪の広さがありました。
しかし、元治元年(1864年)の長州征伐の折に、若林抱屋敷は江戸市中の藩邸と共に没収され、再び志村氏の土地になります。その際に松陰の墓も壊されました。
明治元年(1868年)11月に桂小五郎こと木戸孝允が、藩命により松陰の墓を再建しました。
明治15年(1882年)に松陰の墓の傍に、松陰の門下生、毛利家、関係者により松陰神社が創建され、現在に至ります。
《参考資料》世田谷郷土資料館「資料館だより」№44/松陰神社商店街ご案内/「幕末歴史散歩 東京篇」(一坂太郎)


神社の境内は予想以上に広かったです。
早速「佐幕派ですが失礼します…」と内心思いつつ、社殿にお参りしました。
佐幕派のわたしが図々しくも松陰先生にお願いしたことが、すぐに叶ったので驚きました。

社殿の向かって右隣りには、松下村塾があります。
模築ですが(本物は萩の松陰神社内に保存されています)、ここで尊皇攘夷派の志士や明治新政府に関わった長州人が学んだんだな…としみじみしました。
ちなみに萩の松下村塾で松陰先生が教えたのは2年半程でしたが、維新後松下村塾は復活して、明治25年頃まで続いたそうです。
松下村塾 松下村塾の入口

境内には毛利家及び、松陰先生の門下生が奉納した石燈籠がずらりと並んでいます。
奉納者の中で、佐幕派のわたしがわかるのは伊藤博文、山縣有朋、井上馨、桂太郎、乃木希典だけです。(長州ファンの方は他の人もわかるんでしょうが…)
松陰神社の燈籠の奉納者

もちろん、松陰先生のお墓にお参りしました。
墓所の入口の鳥居は木戸孝允が寄進したものです。
墓所には松陰先生だけでなく、尊皇攘夷派の志士たちの墓や、禁門の変で亡くなった長州藩兵の招魂碑もあります。
今はただ安らかにお眠りくださいと祈るばかりです…
松陰先生の墓所


余談ですが…松陰神社通り商店街で昔ながらのパン屋を見つけたので、パンとラスクを買ったら、買い物スタンプをくれました。
スタンプは商店街のマスコットキャラ「しょーいん君」のイラスト入りです。写真はこちら(別ブログから)です。
しょーいん君はペリリンとオグリン(よこすか開国祭のイメージキャラクター)以上にゆる~いです(笑)
商店街のリーフレットによると『(松陰)先生と違って、生真面目だが、ちょっとボケキャラ?』だそうです。しょーいん君の仲間に「しんさく君」と「げんずい君」もいます。

松陰神社にお参りした後は、豪徳寺に向かいました。
豪徳寺は彦根藩井伊家の菩提寺で、安政の大獄において吉田松陰を弾圧し、桜田門の変で暗殺された大老、井伊直弼の墓があります。
松陰神社と豪徳寺は直線距離で1km足らずしか離れておらず、徒歩でも15分くらいの距離です。
こんな近くに弾圧した者が眠る寺と、弾圧された者が祀られている神社があるとは、何やら因縁を感じます。

松陰神社から豪徳寺に行くには、世田谷区役所&区民会館と国士舘大学の間の道を通ります。
国士舘大学は学祖の一人、徳富蘇峰が松陰先生を尊敬していたゆえ、松陰神社に程近い現在地に校舎を移転したそうです。

話がそれますが、わたしは小学生高学年から高校生の頃にかけて、子供のための演劇を観る会に所属していました。(親に入会させられたのです)
世田谷区民会館で上演される舞台を観に行くために、松陰神社と世田谷区民会館の最寄り駅の東急世田谷線松陰神社前駅をたびたび利用していました。
当時は幕末に全く興味がなかったので、駅名になっている松陰神社に行ったことがありませんでした。
あれから幾年…幕末に興味を持ち、それゆえに松陰神社に行くことになろうとは自分でも驚きです。
でも、世田谷区民会館はわたしがよく行った当時と全然変わっていませんでした(笑)

住宅地を抜けると、豪徳寺の広い敷地が広がっています。
境内に入ると、木の香が匂ってきそうな、完成して間もないらしい三重塔が目に入ってきました。
豪徳寺の三重塔

境内は松陰神社よりもずっと広く、樹木もうっそうと生い茂っているので、ここが世田谷の住宅街の一角だとは思えず、別世界に来たかのようでした。

井伊家の墓所は境内の奥まった一帯にあります。
関係者立ち入り禁止の大名家の墓所もありますが、歴史ファンには幸いにも井伊家の墓所は誰でも墓参自由で、平日にもかかわらず、わたしのように井伊直弼の墓参に来たり、墓を見に来た人が何人もいました。
豪徳寺は増上寺@徳川将軍家霊廟のように戦災に遭わなかったようで、井伊家の墓所には大きな墓がいくつも建ち並んでいました。
正室の墓と側室の墓も個別にありました。(増上寺だと将軍の側室は合祀されているのです)
豪徳寺内の井伊家の墓所

上が井伊家の墓所の写真ですが、これには直弼の墓は写っていません。(直弼の墓の方向に墓所を映すと思いっきり普通の民家が入ってしまうので、撮影するのをやめました)
井伊直弼の墓は東京都指定史跡です。
墓の側面には公式に亡くなったとされる日『(万延元年)閏三月二十八日歿』と刻まれています。
桜田門の変は公然と行われた暗殺にもかかわらず、直弼の死は事件後56日目の万延元年(1860年)閏3月29日にようやく公表されました。
直弼の墓の後ろには、主君を守り闘死した彦根藩士たちや、元彦根藩足軽だった墓守の墓があります。

幕末を詳しく知らない頃は、井伊直弼は安政の大獄で尊皇攘夷派の志士を弾圧した悪者という漠然としたイメージしかありませんでしたが(汗)、「小説 小栗上野介」(童門冬二)を読んでから、井伊直弼に対する印象が変わりました。(小栗さんは井伊直弼に目をかけられたのです)
と言っても彼が「悪者」から「いい人」に変わったのではなくて、井伊直弼が何ゆえあのような行動や政策を取ったのか、わかっただけですが…

それから、世田谷城址公園で一休みしてから、世田谷代官屋敷に行きました。
骨董好きな人ならご存知かもしれない世田谷ボロ市が開かれる通り沿いにあります。
世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20ヶ村の代官を世襲した大場家の役宅で、大名領の代官屋敷として都内唯一残されていいる建物です。
ここだけは、小学生の頃(一体何年前のことやら・汗)に社会科見学で見に行きました。
世田谷代官屋敷表門

「彦根藩世田谷領」というあまり聞きなれない領地名が出てきたので、この辺りで江戸時代の世田谷区について書いてみます。

東京23区の西部に位置する世田谷区は、江戸時代、東半分は武蔵国二十二郡のうち、荏原(えばら)郡、西半分は多摩郡に属していました。
多摩郡は言うまでもありませんが、歳さんの故郷石田村、勇さんの故郷上石原村のある郡です。
多摩郡全体から見れば、現在は世田谷区に属している旧多摩郡の村々は、東端に近い位置にあります。
(荏原郡・多摩郡の詳細な範囲はリンク先(Wikipedia)をご覧くださいm(__)m)
東側の大部分は彦根藩世田谷領でした。
この彦根藩世田谷領は、寛永10年(1633年)に彦根藩主・井伊直孝が江戸屋敷の賄料として幕府から賜られた地です。
また、先程も書きましたが、若林村には長州藩が旗本志村氏の知行地を買い取った長州藩若林抱屋敷がありました。
一方、西側の多摩郡には天領(幕府直轄地)と旗本の知行地、寺領が混在していました。
天領のみの村、天領と知行地が混在する村、村ごと増上寺の寺領、など村によって様々です。
わたしの地元、甲州道中沿いの某村(名前は伏せます)は天領と知行地が混在した村でした。(詳しくはこちら
つまり、江戸時代の世田谷区には、大名領、天領、旗本の知行地、寺領が混在していたのです。
《参考資料》世田谷代官屋敷リーフレット、世田谷区立郷土資料館展示


世田谷代官屋敷の裏手に、世田谷区立郷土資料館があります。
以前見に行った調布市の郷土博物館(勇さんの生家の復元模型と巨大な座像あり)があまりにしょぼいのにガックリしましたが(その時のレポはこちら)、世田谷区の郷土資料館の展示内容やレイアウトはまあまあでした。
世田谷区は都内でも有数の遺跡密集地だそうで、そのためか展示も古代の遺跡に関するものにスペースが多く裂かれていましたが、幕末ものも少しありました。
幕末期に世田谷でも農兵隊が結成されたそうで、農兵隊が使用したゲべール銃が展示されていました。(ここで見られるとは…!)
余談ですが、資料閲覧室でわが母校(小学校)の創立○年記念誌を見つけて、あまりの懐かしさに泣きそうになりました。

29日に幕末・維新祭りを見に再び松陰神社に行きましたが、予想以上に人出が多く、ゆっくりお参りしたり、散策する余地がなかったので、お祭りの前の平日に行って正解でした。(充電中なので出来たんですが…)
都内の幕末ゆかりの史跡にあちこち行って見て、関東大震災や戦災で失われたり、損なわれた史跡や建物の多さに愕然とすることが多いですが、松陰神社と豪徳寺は昔の面影を留めているのが本当に良かったです。
自分が住んでいる区内でちょっとした旅をした半日でした。
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*Comment

こんばんわ 

お久しぶりです。今回は吉田松陰関連ですね。
山口県の人は今でも松陰先生と呼び親しまれているそうですよ
私も吉田松陰先生の本持ってますが、型にはまった教育でなく個人の特性をのばすといった教育方針で、現在でも通じそうな理想な先生ですね。
倒幕の人物であろうが佐幕の人物であろうが知ることに損は無いですからね、
私もかつては佐幕、倒幕、勝者、敗者と人物を分けて考えてましたが、最近では幕末史を知るにつれて、勝者と敗者との差は、ほんの紙一重で人間的に大きな差は無いと思うようになりました。
  • 毅 
  • URL 
  • 2006年10月30日 22時06分 
  • [編集]

 

>毅さん
コメント返しが遅くなってしまい、申し訳ありません(汗)
4月に霊山歴史館に行った時に、吉田松陰中心の特別展が開催されていました。
その折に松陰先生の語録を目にしましたが、どれも現代に通じるものばかりで、松下村塾で教えていた頃から現在に至るまで、松陰先生を尊敬する人が多いのに納得いきました。

わたしは幕末に興味を持ったきっかけが新選組なので、今のところは佐幕派ですが、毅さんの『勝者と敗者との差は、ほんの紙一重で人間的に大きな差は無い』のご意見には同感です。
  • まやこ 
  • URL 
  • 2006年11月06日 11時39分 
  • [編集]

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まやこ

Author:まやこ
2月27日生まれのうお座・AB型

舞台や展覧会を観るのが好きで、仏蘭西と西洋史をこよなく愛する歴女です。(や○い・BLは好きではないので、腐女子ではないようです(笑)

2006年の元旦に「新選組!!土方歳三最期の一日」を見たのがきっかけで新選組副長、土方歳三のファンになり、幕末の世界に足を踏み入れ、全身どっぷり漬かっています。
土方歳三だけでなく、榎本釜次郎武揚、小栗上野介忠順、中島三郎助も贔屓にしています。
彼らの足跡を追って、山の奥や海の彼方にも行きました。

ブログのタイトルは仏蘭西語です。意味と由来はこちらをご覧ください。

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結婚に伴い、長年住んでいた武州多摩郡某村(甲州道中沿い)から武州久良岐郡(横浜市南部)に引っ越したが、2014年6月に夫の仕事の都合で台湾南部の高雄市に住むことになりました。

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