Le régiment H ─ル・レジマン・アッシュ─

台湾・高雄市から土方歳三と榎本武揚を想いつつ、幕末と江戸時代ににまつわる話題を書いています。

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • [No Tag]

和蘭旅行記 2008年9月15日(月) 其ノ壱

しばらく寄り道した和蘭旅行記の本編再開です。

2008年9月15日(月)ハーグ→アムステルダム 天気:晴れ

朝食を食べた後、前日、突然開かなくなってしまったソフトキャリーケースの錠前を何とか自力で壊してから(詳しくは別記事)、日帰りでアムステルダムに行く準備をしました。

別記事にも書きましたが、この日は朝からアムステルダムに行き、アンネ・フランクの家、アムステルダムの国立博物館(美術館)、レンブラントハウスを見て、合間にオランダ留学生のアムステルダムでの下宿先を探してから、知人のKさんと夕食をご一緒する予定でした。
でも、アムスに行くのは錠前を壊してからにしようと思い、計画を練り直しました。
色々考えた末、アムスの中心部からちょっと外れていて、見学するのに時間がかかりそうなアムステルダムの国立博物館に行くのをやめました。

予定なら午前8時半頃にはアムステルダムに着いていたかったのですが、錠前トラブルのため、すっかり予定が狂ってしまい、出発が午前10時近くになってしまいました。

まずトラムでハーグ中央駅に行きました。
ハーグ中央駅の自動券売機は、小銭が使えてもお札が使えず、カードもマエストロカード(マスターカードが運営しているデビットカード)かオランダ国内のデビットカードしか使えなかったので、仕方なく手数料がかかる窓口で、ハーグ中央駅~アムステルダム中央駅の往復切符を購入しました。(往復切符は片道2枚買うよりより若干安いです)
ホームで初めてクロケット(コロッケの元祖)の自動販売機を見かけました。(写真撮ればよかったです)

ハーグ中央駅からアムステルダム中央駅まで列車(オランダ鉄道)で1時間弱です。
このオランダ旅行では、オランダ留学生のようにちょこまか列車で国内を移動しました。
同じ路線上に、わたしが滞在したり、訪ねた街があったので、乗り換えなしで移動できて楽でした。
北から順にルートを書くと以下の通りです。

アムステルダム~スキポール(空港)~ライデン~ハーグ~(デルフト)~ロッテルダム~ドルトレヒト
(フェルメールの故郷、デルフトには行ってないので、カッコに入れました)

赤松大三郎はオランダ留学中にハーグ→ドルトレヒト→アムステルダムと居を移し、これらの街を列車で何度となく移動しています。
赤松に限らず、オランダ留学生は高い頻度で列車に乗っていました。現代の東京人と同じ感覚で乗っていたと言って過言ではありません。
移動手段が基本的に徒歩もしくは駕籠しかなかった日本から来た身には、鉄道はとても便利に感じられたでしょう。
帰国して、日本に列車がないのをもどかしく思ったに違いありません。

アムステルダム中央駅アムステルダム中央駅は近隣諸国からの国際列車が発着するので、駅の規模が大きかったです。
ホーム全体がガラスで出来た?大きなドームのようなもので覆われていたのが印象的でした。
また、駅舎が東京駅のモデルだそうです。(違うとも言われているそうですが…)東京駅の「復元」工事が終わったらこんな風になるんでしょうか。

オランダ政府観光局に記載のアムステルダムの地図はこちらです。

まずはアンネの家まで歩いてみることにしました。
中央駅からアムステルダムの「へそ」と言われるダム広場までの道に、観光客相手のお土産屋やホテルが建ち並び、東京の都心並みに大勢の人が行きかっていました。
ハーグのまったりした雰囲気に慣れ、すっかり緊張感がゆるんでいましたが(汗)、アムスの雑踏を目にして一気に緊張感が高まりました。

王宮のあるダム広場に近づくにつれて、ますます人と自動車とトラム、そして自転車が増えてきました。何だか落ち着きません。
生まれも育ちも東京(多摩郡ですが)、何年も渋谷経由で通勤していたわたしさえそう感じたので、地方からアムスにいらした方はさぞかし驚くかもかもしれません。
ダム広場&王宮の写真はこちらです。(わたしの代理が写っていて失礼^^;)
後で聞いた話によると、夏、ダム広場に移動遊園地が出来て、絶叫系マシンもあったそうです。
アムステルダムの王宮と井上トロ

アンネ・フランクの家までは思った以上に距離がありました。
WEBサイトには、アムステルダム中央駅からアンネ・フランクの家まで徒歩20分と記載されていましたが、これは日本人より大柄なオランダ人の足で歩いて20分だと思いました(苦笑)
わたしは30分かかってしまいました。

アムステルダムの西教会途中で、アンネの家の近くにある西教会に立ち寄りました。
ヨーロッパの教会は基本的には誰にでも開かれていて、ミサを行っていない時は休憩できるのが旅行者にとってありがたいです。もちろん献金します。
レンブラントがこの教会の墓地に葬られ、アンネが隠れ家でこの教会の鐘の音を聞いていたそうです。
錠前の故障というトラブルを何とか乗り切って、アムスに来られたことを心底神様に感謝しました。

この時点でお昼の12時になっていて、お腹がすいてたので、プリンセン運河沿いのアンネの家に近くにある、オランダ風パンケーキの店に行ってみました。

手持ちのガイドブックに載っている店なので、店内には日本人観光客が何人かいました。
英語のTraditional Menuの中からベーコンとリンゴのパンケーキ、カシスジュースを注文しました。
オランダ風パンケーキはクレープより生地が厚めで大きいとは聞いてましたが、わたしの前の前に来たパンケーキはとても一人では食べきれないほどの大きさでした。
下の写真で井上トロと比較してみてください。(うちのトロは身長30cmぐらいです)
テーブルの上にシロップが置いてあったので、かけてみました。
ベーコンの塩味とリンゴのほのかな酸味とシロップの甘さが、なかなかマッチしてましたが、なにぶん大きいので食べているうちに飽きてしまい、割と大食いのわたしが1/4残しました(苦笑)
オランダ風パンケーキと井上トロ
わたしの斜め後ろの席に、日本人女性が座っていたので思い切って話しかけてみました。
幸いにも気さくな方だったので、色々とお話できました。
その方は名古屋からいらして、アムスに二泊した後、ベルギーとドイツ(オクトーバーフェスト)に行かれるとのこと(すでに帰国されているでしょうが)。
パンケーキを注文したのになぜかパフェが来てしまったらしく、わたしが残したパンケーキを見て食べてもいいですか?と聞いてきました。
わたしも残すのは心苦しかったので、喜んでわたしが残した1/4を差し上げて、わたしもパフェを少し頂きました。
それから、その方が別に注文したユネバーを勧められたので、一口飲んでみました。
ユネバーはイギリスで「ジン」になった蒸留酒です。
ハッキリ言って、きつかったです!
オランダ留学生の一人、鍛治師(職方)の大川喜太郎は、アルコール性肝炎が原因でアムステルダムで亡くなりました。
ユネバーのようなきつい酒を飲み続けたら、肝臓を壊すのも無理がないと思ってしまいました。

ひとときの出会いに感謝しつつ、お腹いっぱいになってアンネの家に向かいました。
小学生の頃に「アンネの日記」を読み、彼女の考え方に感銘を受け、憧れていたわたしとしては、アムステルダムのアンネ・フランクの家はいつか絶対に行きたい場所の一つでした。

アンネ・フランク・ハウスは、ユダヤ人のアンネ・フランク一家が第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人迫害から逃れるため、アムステルダムで約2年間隠れ住んだ家です。
アムスに限らず、オランダでは間口が狭く奥行きの深い建物が多いですが、アンネ・フランク・ハウスもそういう建物です。
プリンセン運河に面した表側の建物は、アンネの父、オットー・フランクが共同経営していた会社の事務所と倉庫として使われ、裏側の建物の3階と4階にフランク一家と、彼らの知人のユダヤ人が隠れ住みました。
下の左の写真がアンネ・フランク・ハウスの表側の建物、右側は家の前を流れるプリンセン運河です。
アンネ・フランクの家  アンネの家の前を流れるプリンセン運河  
アンネ・フランク・ハウスのあるプリンセン運河界隈は、割と落ち着いた雰囲気でホッとしました。
表の建物側にある運河の風景をアンネは見ることができかなかったのか…と切ない気分にもなりました。
チケットを買うまでに並びましたが、列の中にわたし以外日本人はいませんでした。
でも、日本語のパンフレットはありました。

順路に表側の建物(事務所・倉庫)から裏の隠れ家までじっくり見ました。
表側の建物は第二次大戦後も事務所として使われましたが、隠れ家の方はナチスドイツが隠れ家の住人を連行した時に、家財道具を押収したので部屋の中はがらんどうです。(アンネの日記は隠れ家に残されたので、隠れ家の住人を陰からサポートした人が拾い集めて戦後まで保管していました)
展示品は少なめでしたが、アンネの日記帳はありました。
両親から13歳の誕生日プレゼントにもらった赤い表紙の日記帳、これにアンネの心の成長がつづられるようになったのか…と思うと感慨深いものがありました。
わたしが「アンネの日記」を読んだのは随分前ですが、展示や家の中を見ているうちに日記の内容を色々と思い出してきました。
この時は日本に帰ったら読み返そうと思いましたが、まだ読み返していません。

裏側の建物に通じるドアが可動式の本棚で隠されていたのは、ご存知の方も多いかと思います。
実際に目にして見て、本棚にあったのは本ではなく、今でも会社で使われているようなファイルだとわかりました。
表側の建物はオフィスとして使われていたので、本棚に普通の本より仕事用のファイルが置いてある方が自然です。
隠れ家の部屋は思った以上に狭かったです。特にアンネの部屋は3畳ぐらいしかありませんでした。
彼女の部屋の壁には、映画スターや王室、絵画のポスターや雑誌の切り抜きがたくさん貼ってありました。
これらを通して、外の世界を思い、早く戦争が終わり、ユダヤ人が自由になる日を来るのを待っていたのでしょう。
普通に外出が自由にできる状況で暮らすならともかく、外に一歩も出ることが出来ず、一日中息を潜めて暮らしていたかと思うと…胸が詰まりました。

フランク一家がこのような潜伏生活を送らざるを得なかったのは、ナチスの極端な政策のせいでした。
ヒトラーがユダヤ人に個人的にどんな感情を持っていたとしても、このような形で弾圧するのは許せないと思いました。(わたし自身はユダヤ人に特別な感情は持っていません)
もし、アンネが戦後も生き延びていたら、どんな女性になっていたでしょうか。
今、彼女が生きていたとしたら79歳です。

しんみりとした気持ちで、アンネ・フランク・ハウスを後にしました。
一度でも「アンネの日記」を読んだことがある人は、アンネ・フランク・ハウスに行かれることを強くお勧めします。

「2008年9月15日(月) 其ノ弐」に続きます。
  • [No Tag]

*Comment

 

アンネの家、当時のままに保存・公開されているのですね。ポスターが貼ったままなんて、アンネがそこに暮らしていた様子がありありと想像できそうですね。生きていれば79歳なんて、まだそれほど遠い昔の話ではないんですね。こういった不幸なことは2度と起きて欲しくないですね。ところで、待望の写真が見れなかったのですが、インターネットの接続環境が悪いのでしょうか??
  • 三浦あぼりじに 
  • URL 
  • 2008年10月12日 23時14分 
  • [編集]

 

>三浦あぼりじにさん
本文にも書きましたが、アンネの家の家財道具は隠れ家の住人が連行された時に押収されたので、部屋の中はがらんどうで、当時の様子を再現してはいませんでした。
殺風景な感じさえ受けましたが、あえてがらんどうの状態にしているのかもしれないと思いました。

ところで写真が見られなかったそうですが、一時的にこのブログ(FC2)で画像の閲覧障害が起きていました。
でも、今は障害が解消されて、写真が見られますので、もう一度ご覧になってみてください。
  • まやこ 
  • URL 
  • 2008年10月13日 00時16分 
  • [編集]

コメントの投稿

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

*Trackback

トラックバックURL
http://regimenth.blog55.fc2.com/tb.php/245-7e37019e

ご案内

プロフィール

まやこ

Author:まやこ
2月27日生まれのうお座・AB型

舞台や展覧会を観るのが好きで、仏蘭西と西洋史をこよなく愛する歴女です。(や○い・BLは好きではないので、腐女子ではないようです(笑)

2006年の元旦に「新選組!!土方歳三最期の一日」を見たのがきっかけで新選組副長、土方歳三のファンになり、幕末の世界に足を踏み入れ、全身どっぷり漬かっています。
土方歳三だけでなく、榎本釜次郎武揚、小栗上野介忠順、中島三郎助も贔屓にしています。
彼らの足跡を追って、山の奥や海の彼方にも行きました。

ブログのタイトルは仏蘭西語です。意味と由来はこちらをご覧ください。

もし記事の内容に間違いを見つけましたら、鍵付コメントか下のメールフォームにてご指摘ください。
本文に全く関係のないコメント・トラバは見つけ次第即削除します。
WEB拍手のコメント返しは、拍手をいただいた記事につけます。

結婚に伴い、長年住んでいた武州多摩郡某村(甲州道中沿い)から武州久良岐郡(横浜市南部)に引っ越したが、2014年6月に夫の仕事の都合で台湾南部の高雄市に住むことになりました。

ブログランキングに参加中!

↓一日一押しお願いします♪

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

日々のつぶやき

最近の記事

月別アーカイブ

西暦をクリックすると、その年の月別リストが表示されます。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。