Le régiment H ─ル・レジマン・アッシュ─

台湾・高雄市から土方歳三と榎本武揚を想いつつ、幕末と江戸時代ににまつわる話題を書いています。

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和蘭旅行記 幕末オランダ留学生のハーグでの下宿先

9月14日、16日にわたしのオランダ行きの目的の一つ、オランダ留学生のハーグでの下宿先(+α)を『幕末オランダ留学生の研究』(以下『~留学生の研究』)に掲載されている地図と、本文に登場する住所(←赤松大三郎が残したメモより)を頼りに探してみました。

ハーグは古い街並が残っているから、下宿先の建物も現存しているところが多いだろうと思っていたら、建物が建て替わっているところが大半でした。
また、『~留学生の研究』の文に登場する住所と地図に掲載されている下宿先の位置が食い違っていたり、通りの名は同じでも番地が昔と変わったらしい、など探すのに結構手こずりました。
なので、正直言って、わたしが下宿先だと思って写真を撮った場所が違っている可能性があります(汗)
もし、オランダ留学生のハーグでの下宿先での正確な場所をご存知の方がいらしたら、ご教授いただけると、非常に助かります。
でも、あくまで、わたしはヨーロッパ大好きな一幕末史ファンで、研究者ではないので、もし場所が間違っていたとしても厳しい指摘はご勘弁ください。
日本のように劇的に街並は変わっていないので、「○○さんはこんなところに住んでたんだ~」と現地の雰囲気を感じ取っていただけたら幸いです。

これから下宿先の住所が登場するので、オランダの通りの名前について、少しばかり書いてみます。

straat(ストラート): 英語のstreetと同じです。
kade(カーデ): 岸壁、運河沿い又は元運河沿いの通りです。
gracht(フラハト): 運河又は元運河を埋め立てた通りです。
ハーグには運河を埋め立てて道路にした通りがいくつもあります。
オランダで道幅が広めで、名前に'kade'か'gracht'がついている通りは、元は運河だったと思ってよさそうです。

『~留学生の研究』記載の地図(別ウィンドウで開きます):
この地図を見ながら、この先の文章を読んでいただく方が下宿先の位置関係がつかめていいかと思います。

ハーグ市内の地図(PDFファイルが開きます):
リンク先の地図の下部の'Centrum'がハーグの中心部で、留学生が住んだエリアです。
地図を拡大すれば、通りの名前も出てきますので、横文字に抵抗のない方はご覧ください。

以下、留学生の下宿先の住所と現地の写真です。留学生の名前は基本的に敬称略、住所は『~留学生の研究』に記載されたものです。
わたしが歩き回った順に載せます(ホテルから近い下宿先から探しました)。

◆田口俊平:Plaats No.17(プラーツ17番地)

田口俊平の下宿先のあった界隈(ハーグ・プラーツ広場)プラーツはホフフェイファ(池)とBuitenhof(バイテンホフ)通りを挟んだところにある広場です。
今はレストランや日用雑貨の店、洋品店が並ぶ賑やかな繁華街です。
でも、現在は「Plaats No.17」という住所は存在しません。

オランダに限らず、ヨーロッパの通りの番地は、通りの片側が偶数、反対側が奇数です。
プラーツは三角形の広場で、三角形の頂点の一辺に偶数、もう一辺に奇数の番地が割り振られています。(底辺に当たる部分はBuitenhofに面しているので建物なし)
奇数の番地の建物をくまなく見てみましたが、なぜか17番だけ欠けていました。
仕方ないので、奇数側の番地の街並を撮影しました。


◆内田恒次郎:Hoogestraat No.23(ホーヘストラート23番地)

内田恒次郎の下宿先(ハーグ・ホーヘストラート)ハーグの留学生の下宿先で、唯一140年前と同じ建物(だと思われる)です。
『~留学生の研究』によると「昔は名士が多く住み、比較的大きな家が建ち並んでいる街路」ですが、今はハーグの繁華街の一つで、ファッションストリートです。
内田の下宿のあった建物も、今は地上階が洋品店になっていました。
田口の下宿から内田の下宿まで徒歩3分ぐらいです。


◆林研海:Spui(straat)No.57(スパイストラート57番地)

探すのにかなり手こずったのに、結局場所が特定できませんでした(泣)
というのは、『~留学生の研究』掲載の地図に載っている林研海の下宿先の位置と、現在の57番地の位置が違っていたからです。どうやら後に番地が変わったようです。
ハーグで入手した現地の地図と『~留学生の研究』掲載の地図を突き合わせて、林の下宿先があったと思われる場所に行ってみましたが、その場所に立っているのは1880年代に建てられた建物や、アールヌーボー建築なので、きっと後に建て替えたと思われます。(写真はその界隈です)
林研海のハーグでの下宿先があった通り(スパイストラート)
オランダでは建物の正面に'ANNO 1918'のように、建物の建築年が刻まれてることが多いです。
また、ハーグの中心街はアールヌーボー建築が多く、ハーグの観光案内所(VVV・フェーフェーフェー)発行の市内のアールヌーボー建築巡りマップが売っていました。
個人的にアールヌーボーは大好きなので、ハーグであちこちアールヌーボー建築が見られてうれしかったです。
今のスパイストラートもハーグの繁華街の一つです。
日本に先月進出したばかりの「H&M」もありました。(オランダでは日本のユ○クロ並に各都市に「H&M」があります)


◆榎本釜次郎:Gedempte burgwal No.18(ヘデンプテ・ブルフワル18番地)

『~留学生の研究』にも書いてあったのですが、釜さん(やっぱり別格☆)の下宿先があった界隈は140年前とかなり街並が変わっていました。

『~留学生の研究』に、ヘデンプテ・ブルフワル通りは「運河と河岸があった所で現在は埋め立てられ街路となっている」、「昔の建物が少なく、現在はモダンな建物に取って代わられている」と書かれていますが、本当にその通りでした。
中心部の昔ながらの通りは幅が狭く、車が一台通るのがやっとですが、ヘデンプテ・ブルフワル通りは道幅が広めで、車が路肩にたくさん駐車してありました(苦笑)
また古い建物も少なく、後述するGedempte gracht(ヘデンプテ運河)通り、Wagenstraat(ワーヘンストラート)と共に中華街になっています。
榎本釜次郎のハーグでの下宿先があった通り(ヘデンプテ・ブルフワル)  釜さんが下宿してた通りは中華街になっていた…
上の右側の写真は通りの表示ですが、オランダ語と中国語両方で表記されています!
中国語の『填平護城壕』は「城を護っていた壕をうめて平らにした」という意味でしょうか。
中華街と言っても、横浜の中華街のようにいかにも中華な店が建ち並んでいるわけではなく、地上階に中華料理店や雑貨店が入居している店がポツポツある程度です。

『~留学生の研究』掲載の地図によると、釜さんの下宿先はヘデンプテ・ブルフワルではなくヘデンプテ・ブルフワルから続いているGedempte gracht(ヘデンプテ運河)通りにあります。
先程書きましたが、この通りはヘデンプテ・ブルフワル通りと一続きで、やはり中華街で、地図上で釜さんの下宿があったとされる場所は、新しい建物になっていました。

6月に小樽に行った時に、榎本武揚没後100周年記念事業の一環の記念講演会を聴きました。
その時に『武揚伝』の作者の佐々木譲氏が、ハーグの釜さんの下宿先は今ではカメラ店になっていると大型スクリーンで現地の写真を見せてくださいました。
PENTAXとOLYMPUSのロゴが目立つ建物でした。
講演では写真撮影OKだったので、下宿先が映っているスクリーンを撮りました。

ここが釜さんの下宿先?ヘデンプテ・ブルフワル通りに確かにその店はありました。
でも、『~留学生の研究』掲載の地図と位置が違い、ヘデンプテ・ブルフワル通りとWagenstraat(ワーヘンストラート)が交差する角にありました。写真を見ての通り、建物は新しいです。
写真では店が開いていませんが、後日(17日)に再び行ってみたら、店が開いていたので入ってみました。
日本でも以前はよく見かけたカメラ専門店で、15分でデジカメ写真を現像できるマシンも置いてありました。(時間がなかったので現像しませんでした)

釜さんはこの界隈に下宿していたのでしょうが、結局正確な位置はわかりませんでした。
『~留学生の研究』掲載の地図に載っている所、佐々木氏が撮影した店、はたまた違う所なのか…?
天国?の釜さんは自分が下宿した界隈が中華街になっていて、ちょっとビックリしているかもしれません(笑)

余談ですが、ヘデンプテ・ブルワル通りの北側を平行に走るGrote Marktstraat(フロート・マルクトストラート)沿いにはデパートやショッピングセンターがいくつもあります。
中でも「HEMA」という日常雑貨中心のスーパーはオランダ人の生活が垣間見えて、店内を見て歩くだけでも面白かったです。


◆赤松大三郎:Wagenstraat(ワーヘンストラート)

『~留学生の研究』によると、赤松のハーグでの下宿先はWagenstraat(ワーヘンストラート)にあったことはわかっているそうですが、番地まで調べがつかなかったそうです。
(でも、赤松はアムステルダムやドルトレヒトでの下宿先の建物は現存していて、しかも日本でも静岡県磐田市に旧宅があるので、とても恵まれています)
ワーヘンストラートはヘデンプテ・ブルフワル通りと交差してます。そしてこの通りも中華街です。
『~留学生の研究』では番地が調べがつかなかったとありますが、地図に赤松の下宿の位置が載っていました。
その辺りに1683年築の建物があったので、撮影してみました。 (下の写真の右側です)
赤松の下宿先は時計屋だったそうです。ちょっと時計屋の風情を感じるのはわたしだけでしょうか。
赤松大三郎のハーグでの下宿先があった通り(ワーヘンストラート)  ワーヘンストラートの1683年築の家


◆伊東玄伯:Amsterdamsche Veerkade No.26(アムステルダムセ・フェアカーデ26番地)

伊東玄伯のハーグでの下宿先があった通り(アムステルダムセ・フェアカーデ) 『~留学生の研究』によると、アムステルダムセ・フェアカーデは「当時はまだ運河であり、アムステルダムに運ぶ商品を満載した船が出た所」です。
今は運河は埋め立てられ、トラムが通る幅の広い通りになっています。通りの名前に'kade'がついているのが、昔は運河だったことを偲ばせます。
この界隈はハーグの中心街の中心(ビネンホフ)から少し離れている(それでも徒歩15分ぐらい)、新しい建物になっているところが多いです。
わたしが伊東玄伯の下宿先の番地に立っていると思って撮った建物は、帰国後写真をよく見たら番地が違うことがわかりました(汗)
でも、わたしの好きなアールヌーボー調の装飾があるので載せてみます。


◆ポンペの家(?):Spui大通りとSpuistraatが交差する角

ポンペの家(?)(スパイストラートとスパイ大通りの角) ご存知の方も多いでしょうが、ポンペは長崎海軍伝習所のオランダ教師団の軍医として来日しましたが、オランダに帰国後、オランダ留学生の世話役を務めました。
『~留学生の研究』掲載の地図によると、Spui大通りとSpuistraatが交差する角にポンペの家があったそうですが、現在そこに立っていたのはかなり大きな建物でした。
写真には写っていませんが、地上階はバーガーキングです(笑)
仮にポンペがこの地に住んでいたとしても、今の建物は多分ポンペが住んでいた当時の建物とは違う可能性が大きいです。
建物の正面上部と中央に見える鳥(コウノトリ)はハーグ市のシンボルです。

スパイ大通りはハーグの中心部を縦断する広い通りで、通り沿いに大きな劇場や市立図書館があります。 でも、古本市で見つけた昔のハーグの本によると、この通りも昔は運河だったそうです。

ここまで9月14日に廻り、9月16日にオランダ女王の国会開会のパレード(記事は後ほど)の後、以下の通りに行ってみました。

◆プロンク写真館:Willemstraat No.47(ウィレムストラート47番地)

プロンク写真館のあった通り(ウィレムストラート)釜さんやオランダ留学生の皆さんが記念写真を撮った、プロンク写真館があった通りです。
日曜日にアンティーク市が開かれるランヘ・ホールハウトの北側、徒歩5分位のところにある通りですが、今では普通の住宅街になっています。 下の写真の中央の煉瓦造りの建物が47番地です。
写真では建物は古そうに見えますが、『~留学生の研究』によると昔の建物は取り壊されているそうです。
観光客が来そうにない、普通に人が暮らしている界隈だったので、かえって写真が撮りづらかったです。

『~留学生の研究』掲載の澤太郎左衛門の談話によると、羽織袴に帯刀して、この写真館に写真を撮りに行ったら、日本人を見ようと野次馬がこの通りに殺到したそうです(笑)
手持ちの『幕末 写真の時代』(ちくま文庫)にプロンク写真館で撮影した、和服姿の釜さん・赤松の写真が載っていますが、こんな服装でハーグの街を歩いていたら、嫌でも目立ちまくりです。
すぐにオランダ側から、和服でなく洋装にした方がいいという通達があったの納得です。

◆澤太郎左衛門:Hoge Nieuwstraat(ホーヘ・ニューストラート)

『~留学生の研究』掲載の地図には、澤はこの通りに下宿したことになっています。(番地は載っていませんでした)
この通りは新しい建物が大半で、澤の下宿先があった辺りは昔の面影なしでした(泣)
写真は通りの中でも、かろうじて古い建物があったところを撮ってみたものです。
澤太郎左衛門の下宿先があった通り(ホーヘ・ニューストラート)

ハーグで、わたしが巡ったオランダ留学生のゆかりの地は以上です。


『~留学生の研究』掲載の地図を片手にハーグの街を歩いてみて実感したのは、留学生はホーヘストラートの内田恒次郎の下宿から徒歩15分以内のところに住んでいた、ということです。
正にスープ(みそ汁?)の冷めない距離です(笑)
史跡巡りが趣味の皆さんなら実感されているでしょうが、例え当時の面影が残っていなくても、実際にその場所を歩いてみて、初めてわかることがありますよね。

ハーグに140年以上前の建物があまり残っていなかったのが意外でした。
でも、一般の人が住んでいた建物だからこそ、後に建て替えたのだと思います。
江戸時代の建物がほとんど残っていない、面影すら残っていない東京の中心部に比べれば、ハーグの街にはまだまだ古い建物が残っています。
留学生が日々目にしたに違いない、ビネンホフは堂々たる現役です。
オランダでは地震がほとんどないので、500年以上前の古い煉瓦造りの建物が現存しているのでしょうが、日本より古い建物や街並を大切にしようという意識が遥かに高いと思いました。
(皆さん、写真に電線が写りこんでいないのにお気づきでしょうか。たまに写っている電線はトラムのものです)
それは、ライデンに行ってから、ますます感じました。

この記事を見て、ハーグに行って、オランダ留学生のゆかりの地巡りをしたいと思われる幕末ファンが一人でも多く現われることを願っています。
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*Comment

 

まやこさん、こんばんは~。

力作のレポート、ありがとうございます!
140年前の建物が残っていないのは、残念ですが仕方ない事ですね。当時のものでないにしろ、オランダの建物の作りや並び方でなんとなく雰囲気が伝わってきます。

留学生たちが皆近くに下宿したのは、連絡を取り合うのに都合が良かったいうのが本来の理由でしょうが、日本と全く違う風景、街並、人間の中で里心が起きる時もあるでしょうし、やはり日本人同士近くにいたかったのかな、と思いました。

続き、楽しみにしています♪
  • 香音里 
  • URL 
  • 2008年10月07日 00時16分 
  • [編集]

 

>香音里さん
ハーグでの下宿先巡りレポを読んでいただき、ありがとうございます!

ハーグでは下宿先の建物はほとんど現存していなくて残念でしたが、日本人の目から見れば古い(100年以上前の)建物はたくさんあるので、洋館大好きなわたしはハーグの街を散策していて、とても楽しかったです。

『幕末オランダ留学生の研究』によると、留学生がまだハーグとライデンにしか分かれていなかった頃は、ハーグ在住の留学生は頻繁にお互いの下宿を訪問していたそうです。
やはり、異国暮らしで一番落ち着いたのは、日本人同士で会って話すひとときだったんでしょうね。

レポの続き、がんばって書きますね!
  • まやこ 
  • URL 
  • 2008年10月07日 01時26分 
  • [編集]

 

まやこさん、異国の地での詳細なる探索(笑)の腕、スゴイです!!
街中とはいえ、釜さん下宿が中華街になっているとわ、驚きですっっ。
(清国公使になった縁もあるのかも、榎本さん???)

近くに住んでいたとはいえ、始終(家族以外も含め)人が出入りしていて
バタバタしていた江戸のお屋敷・長屋に育った彼らからすれば、
個別に暮らす西洋式の暮らしは慣れるまで寂しかっただろうな、と思います。

うちのわりと近くに日本語学校がありまして、
それぞれ母国が同じ人同士が路上でわいわい会話している姿をみると、
オランダの彼らもきっと会うといつまでも語りあっていたのだろうな…なんて
想像したりして(笑)。


  • はな。 
  • URL 
  • 2008年10月08日 19時06分 
  • [編集]

 

>はなさん
わたしがハーグだけでなくライデンやアムステルダムで、オランダ留学生の下宿先を探すことができたのは『幕末オランダ留学生の研究』のおかげです。
この本に載っていた詳細な情報なくしては、到底探すことは不可能でした。

わたしも釜さんの下宿があった界隈が中華街になっていたのはビックリしました(笑)
『填平護城壕』には目が点になりましたv-13
佐々木譲氏は、小樽での講演会ではそのようなことは一言も言ってなかったので尚更です。
多分、言えなかったんでしょうね(苦笑)

それから…日本では木と紙で出来た建物に住んでいて、常に生活音が筒抜けだったであろう彼らにとって、煉瓦造りの建物で、個別に暮らす生活は静寂に等しかったかもしれませんね。
赤松のように、下宿先の住人と仲良くなれば別ですが…

異国で母国語でない言語で話すのは本当に気疲れするので、母国が同じ人と会って話すとホッとします。
わたしもアムステルダムで、現地在住の日本人の方とお会いしたんですが、数日間超片言の英語で話していたストレスがたまっていたので、一気に日本語で話しまくりました。
  • まやこ 
  • URL 
  • 2008年10月08日 22時24分 
  • [編集]

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まやこ

Author:まやこ
2月27日生まれのうお座・AB型

舞台や展覧会を観るのが好きで、仏蘭西と西洋史をこよなく愛する歴女です。(や○い・BLは好きではないので、腐女子ではないようです(笑)

2006年の元旦に「新選組!!土方歳三最期の一日」を見たのがきっかけで新選組副長、土方歳三のファンになり、幕末の世界に足を踏み入れ、全身どっぷり漬かっています。
土方歳三だけでなく、榎本釜次郎武揚、小栗上野介忠順、中島三郎助も贔屓にしています。
彼らの足跡を追って、山の奥や海の彼方にも行きました。

ブログのタイトルは仏蘭西語です。意味と由来はこちらをご覧ください。

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WEB拍手のコメント返しは、拍手をいただいた記事につけます。

結婚に伴い、長年住んでいた武州多摩郡某村(甲州道中沿い)から武州久良岐郡(横浜市南部)に引っ越したが、2014年6月に夫の仕事の都合で台湾南部の高雄市に住むことになりました。

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