Le régiment H ─ル・レジマン・アッシュ─

台湾・高雄市から土方歳三と榎本武揚を想いつつ、幕末と江戸時代ににまつわる話題を書いています。

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小栗まつり(その2)

小栗まつり(その1)からの続きです。

その後は本堂で開かれた「ナイアガラ号」の帆船模型の除幕式を見学しました。
ナイアガラ号は小栗さんが万延元年(1860年)に監察として加わっていた遣米使節団が乗ったアメリカ海軍軍艦の一つです。
東善寺のご住職は、日本人初の世界一周をした遣米使節団が乗った船を「遣米使節三船」と呼んでいました。(どうやらこの呼び方を広めたいそうです)
下の画像がナイアガラ号の模型です。
ナイアガラ号の模型

遣米使節三船は以下の通りです。
◇ポウハタン号(横浜~太平洋~サンフランシスコ~パナマ)
◇ロアノウク号(<パナマから列車>アスピンウォール~カリブ海~ワシントン)
◇ナイアガラ号(ニューヨーク~大西洋~インド洋~バタビア~香港~品川)

遣米使節は上記の軍艦を乗り継いで、世界一周しました。
ポウハタン号はペリーが再来日した時に乗ってきた軍艦で、この船上で日米修好通商条約が結ばれ、箱館にも来航しています。
浦賀レポで散々ネタにした勝海舟が艦将(←正式な艦長ではありません)として乗りこんだ咸臨丸は、ポウハタン号の随伴艦として太平洋を往復していますが、一緒に航海したわけでないのに、随伴艦と言えるのかと思ってしまいます。
航海中は日本人の乗組員のほとんどは使いものにならず、アメリカ人の船員に頼りっきりだったという話は、今では結構知られるようになりました。(わたしもこのことは幕末にハマる前から知っていました)

東善寺には以前からポウハタン号とロアノウク号の帆船模型があり、わたしも去年東善寺を訪問した時にはナイアガラ号を製作中だというので、ささやかながら製作費用を寄付しました。
そして、今年の小栗まつりでナイアガラ号と、2隻目のポウハタン号が地元の野球少年と剣道少年によってお披露目されました。
彼らが、帆船の飾ってあるケースにかけられた布を取って見せました。
なぜ、東善寺にこれらの船の帆船模型があるのかは、こちらのページをご覧ください。

その後、ご住職による「遣米使節三船」の意味についてのお話がありました。
東善寺のご住職はしきりに遣米使節の業績をアピールされていましたが、ご住職の話を聞きながら、遣米使節の2年後(文久2年)、幕府がヨーロッパに派遣した使節団の方がミッションが大変だったんだよな…と思っていました。

わたしは宮永孝氏著の『万延元年の遣米使節団』と『幕末遣欧使節団』両方とも読みました。
これらの本によると、遣米使節団の目的はあくまで日米修好通商条約の批准書の交換ですが、遣欧使節団は修好通商条約を結んだヨーロッパの国々(フランス・イギリス・オランダ・プロシア(ドイツ)・ロシア・ポルトガル)に開市開港の延期を要請する、というデリケートで難しい使命を担っていたのです。
遣米使節団がアメリカに滞在していた頃から、日本で攘夷の嵐が吹き荒れていたからなのですが…
遣米使節団はアメリカ各地で熱狂的な大歓迎を受けますが、遣欧使節団はどこの国でも歓迎されたわけではありませんでした。
長年交流があったオランダでは最恵国待遇を受けましたが、イギリスやプロシアではそれほどではなかったそうです。
そんなわけで、遣米使節団と(第一回)遣欧使節団を比べると、遣欧使節団の方が大変だったと思ってしまうのです。

幕府の使節団はアメリカ、ヨーロッパで日本とはまるで異なる文化を浴びるように見聞したにもかかわらず、帰国後、攘夷の嵐が吹き荒れ、徳川幕府の屋台骨がぐらつく状況で、海外での経験を幕政に生かすことはほとんどありませんでした。
その中で、小栗さんは自分のアメリカでの見聞を日本で体現しようとしました。
幕府の使節団でアルセナル(海軍造船所)を見学したのは小栗さんだけではありません。
多分、見学した人のほとんどが今の日本ではこのような施設を造るのは無理だろうと思っていたのでしょう。
でも、小栗さんは日本にアルセナルを造ることが、この先、日本を治めるのが徳川幕府でなくなったとしても、これからの日本を変えていくことにつながると考えました。
そして、日本でのアルセナル建設に向けて奔走したのです。
この辺りは、小栗さんの伝記や小説に書かれているので、ここでは詳しく書きません。
先程も少し書きましたが、アルセナル建設も含めて、小栗さんが自分のアメリカでの見聞を生かすには当時の日本はとても厳しい状況でした。
それでも、小栗さんは日本の行く末を思い、強い意志と実行力を持って、体現しようとしました。
小栗さんはその点で、海外の使節団に参加した他の幕臣と一線を画していました。
日本を新しい方向に向けたい!と思い、行動に移したのは、志士だけではないのです。

ご住職の話の後は、群馬マンドリン楽団による記念演奏がありました。初めの方は小栗さんゆかりの曲が演奏されました。
その中でわたしのツボをついたのは『ヘイル・コロンビア』です。
この曲はアメリカ国歌が現在の『星条旗』に制定される前、「愛国歌」として国歌同然に演奏されたそうです。
…ということは、久里浜に上陸したペリー艦隊の軍楽隊もこの曲を演奏して、国書受理の式に参加した中島(三郎助)さんはきっとこの曲を聴いたんだろうな…と妄想しました。
(この記事を書くにあたって、『ヘイル・コロンビア』で検索したら、やはりペリー艦隊の久里浜上陸の折に、この曲が演奏されたそうです)

また『トミーポルカ』も演奏されました。
遣米使節団の一員で、アメリカ人(特に女性)に大人気だったトミーこと立石斧次郎について歌われた曲です。
今でも残っているトミーの写真を見る限りでは、決して美少年(渡米当時16歳)とは思えませんが(汗)、好奇心旺盛で茶目っ気のある性格だったそうなので、その辺りがアメリカ女性の人気を集めたのでしょう。
ちなみに渡米時に撮影されたトミーの写真はバックに花を背負っています(笑)
トミーの写真には、彼の傍らのテーブルの上に花が飾られているのですが、トミーと同じ写真館で撮影した思われる使節団の人たちの写真にはテーブルはあって(写っていて)も、花は飾ってありません。

でも、マンドリンの音色は『ヘイル・コロンビア』や『トミーポルカ』のような曲を演奏するには、あまりにも抒情的過ぎると思いました。
出来るなら、アメリカで当時使われていた楽器でこれらの曲が奏でられるのを聴いてみたいです。
この他に『ヤンキー・ドゥードゥル』や小栗さんの追悼曲『維新無情』が演奏されましたが、その後、小栗さんとは関係ない歌謡曲を演奏し始めたので、演奏を聴くのをやめて退席しました。

それから、庫裏の大広間で随時展示中の「遣米使節・世界一周の旅」というパネル展を見ました。
こちらはご住職が自力で入手された、遣米使節団がアメリカを訪問した当時の新聞記事がパネルになって展示されています。
去年、東善寺を参拝した折にこの展示を見ましたが、今日は特別な日なので新聞の現物が展示されていました。
貴重な資料をじっくりと見たのは言うまでもありません。

小栗さんが渡米した万延元年、即ち1860年はアメリカの南北戦争が始まる前年です。
「風と共に去りぬ」や「若草物語」(どちらも南北戦争中の物語です)の世界に、丁髷、羽織・袴に二本差しの武士がやってきたのです。
わたしは仏蘭西かぶれと言いつつも、「風と共に去りぬ」「若草物語」の小説を読み、映画も見ています。
なので、アメリカでは小栗さんたち遣米使節団の身なりはさぞかし珍奇な目で見られただろうな…と思ってしまいます(爆)
アメリカの新聞は海の向こうからやってきた日本人を大々的に取り上げていて、如何にアメリカで注目されていたかよくわかります。

また、この記事を書くついでに「若草物語」について少し調べてみました。
「若草物語」が発表されたのは1868年、作者のルイーザ・メイ・オルコットが生まれたのは1832年です。
小学生の頃に「若草物語」と出会って読みましたが、当時は作品が発表された年も、作者の生年も全く気にしていなかったので、オルコットが歳さんや勇さんとほぼ同世代で(!)、幕末ファンにとっては非常に重要な1868年に「若草物語」が発表されたと知り、驚きました。

大広間の片隅で、ご住職がどこかの新聞記者に取材を受けていました。
去年、東善寺に参拝した時にご住職と少しお話したので、今日は挨拶したいと思い、アメリカの記事の現物を見ながら機会を伺っていましたが、新聞記者の話が途切れず、結局挨拶できませんでした。

そうこうしているうちに、マンドリンの演奏会も終わり、小栗まつりはお開きになりました。
高崎駅行きのバスが来る時間まで、かなり時間がありましたが、境内は後片付けに入っていたので、部外者がいるわけにもいかず、お寺を後にしました。
でも、お寺の周りにはコンビニなど時間をつぶせそうな店が1軒もないので、時間を持て余してしまいました。
権田から高崎駅行きのバスは約1時間に1本、境内には(小栗さん目当てでない地元の人々も含めて)かなりの人がいたにもかかわらず、バス停周辺で待っている人は数えるほどです。
それは、みんな自家用車で来ているからです。

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、群馬県は一家に一台ではなく、一人に一台と言われるほど、自家用車の保有率が高いです。(上州在住の父方の叔母の家も、遠縁の家もそれに近いです)
群馬県内は車でないと行けない場所が多いので、自動車どころか運転免許すら持っていない、公共の交通手段が頼りの東京人はとても困ります。
東善寺の境内で、都内では入手が難しそうな『上州路』という雑誌の、小栗さんの史跡めぐり特集を買いましたが、これに掲載されている群馬県内の小栗さんゆかりの史跡はほとんどが車でしか行けません。
東善寺はすぐ近くに群馬バスの停留所があるので、何とか行けますが、他の史跡は自力で行くのは難しそうです。
群馬在住の従妹や知人にドライバーをお願いする手もありますが、歴史に興味がない人に頼むのはちょっと…と躊躇してしまいます。

バスの車窓から、小栗さんが家臣と共に斬首されてしまった烏川の水沼河原を見つつ(小栗さんの顕彰慰霊碑の立っている場所に、小栗家の家紋を染め抜いた旗がたなびいているのです)、権田を後にしました。
バスは室田で一休みしてから、高崎駅に向かいました。
高崎駅に着いて、時刻表を見たら、すぐに新宿方面の湘南新宿ライナーが来ることがわかったので、それに乗って帰京しました。
この記事のはじめの方にも書きましたが、湘南新宿ライナーが出来て、高崎への行き来が本当に楽になりました。
タイミングよく乗れたおかげで、予定より1時間早く新宿に戻れました。


最後まで長いレポにお付き合いいただき、ありがとうございました。
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まやこ

Author:まやこ
2月27日生まれのうお座・AB型

舞台や展覧会を観るのが好きで、仏蘭西と西洋史をこよなく愛する歴女です。(や○い・BLは好きではないので、腐女子ではないようです(笑)

2006年の元旦に「新選組!!土方歳三最期の一日」を見たのがきっかけで新選組副長、土方歳三のファンになり、幕末の世界に足を踏み入れ、全身どっぷり漬かっています。
土方歳三だけでなく、榎本釜次郎武揚、小栗上野介忠順、中島三郎助も贔屓にしています。
彼らの足跡を追って、山の奥や海の彼方にも行きました。

ブログのタイトルは仏蘭西語です。意味と由来はこちらをご覧ください。

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結婚に伴い、長年住んでいた武州多摩郡某村(甲州道中沿い)から武州久良岐郡(横浜市南部)に引っ越したが、2014年6月に夫の仕事の都合で台湾南部の高雄市に住むことになりました。

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