Le régiment H ─ル・レジマン・アッシュ─

台湾・高雄市から土方歳三と榎本武揚を想いつつ、幕末と江戸時代ににまつわる話題を書いています。

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『くろふね』

浦賀に行って以来、ますます中島三郎助が気になってきたので、その勢いで中島さんが主人公の小説『くろふね』(佐々木譲)を図書館で借りてきました。
図書館で本を借りるのは久しぶりだったので、貸出期限に間に合うように必死で読んだら、読みやすい文章なのもあって、思ったより早く読了できました。

この先はネタバレしていますので、その旨ご了承の上お読みください。


この小説は明治2年5月16日に、箱館の千代ヶ岡陣屋で中島さん親子が戦死してしまう場面から始まります。
でも、正直言って、中島さんの戦死から物語を始めるべきではなかったと思います。
その理由は後述します。
ただ、羅紗のマントルを翻して、短銃を打つ中島さんはとてもカッコ良かったです。

わたしは箱館戦争経由で中島さんの存在を知った当初は、親子共々戦死という印象が強かったのですが、断片的ながらも中島さんの生涯を知るにつれ、更に今回『くろふね』を読み、中島さんは「黒船」と共に生きた人だと強く感じました。
初めは黒船は砲撃と打ち払いの対象だったのが、黒船に乗ってやって来る外国人と応接し、やがて自分の手で黒船を造り、動かして航海するようになる。
中島さんがこのように「黒船」と深く関わるようになったのは、『くろふね』を読む限りでは、浦賀でたびたび「黒船」と接し、日本の海防の脆弱さを肌身で感じていたゆえに海防や「黒船」の造船に深く関心を寄せていたからだと思いました。

ペリー艦隊が最初に浦賀に来航した時、浦賀奉行所の与力だった中島さんは(本来は存在しない役職の)「副奉行」として応対しました。
久里浜での国書受理式の後、中島さんはペリー艦隊のサスケハナ号に乗船する機会があり、中島さんはアメリカ人に「でしゃばり」「しつこい」「詮索好き」と思われるほど船内を見て周り、質問攻めにしたそうです。
この逸話は裏を返せば、中島さんが黒船に対して強い好奇心を持っていたことを示しています。
『くろふね』ではこの逸話を元に、中島さんを若い頃から好奇心旺盛で、海外の新しい知識を柔軟に取り入れる人物として描かれています。
やがて海防と造船に造詣の深い人物として、浦賀奉行所のただの「役人」とは一線を画し、奉行所内で一目置かれ、彼の名を聞きつけた長州の吉田松陰や桂小五郎が中島さんを訪れたり、長崎海軍伝習所に伝習生として派遣されるまでになるのです。

『くろふね』はペリー艦隊との応接も含めて、中島さんが生涯の多くの日々を過ごした浦賀時代に多くの頁が割かれています。
浦賀に行って間もなかったので、浦賀の港に吹く潮風と沖合いの青い海、緑に覆われた山の情景を思い出しながら読みました。
(浦賀の海は、江戸湾の奥のように大々的に埋めたてられていないのです)
中島さんのペリー艦隊との応接はこの小説と同じ作者による『幕臣たちと技術立国』で書かれていますが、『くろふね』では中島さんの心情も含め、更に具体的に描かれています。
個人的には中島さんの同僚与力で「正奉行」としてペリー艦隊と応対した香山栄左衛門と、中島さんとのやり取りが遠慮のない仲を感じさせて良かったです。
ペリー艦隊の来航は日本にとって開国という大きな転機をもたらしましたが、何度も「黒船」と接していた中島さんにとっても、ペリー艦隊はただの「黒船」ではなく、その後の中島さんの人生を決定づける大きな存在になりました。

中島さんが長崎海軍伝習所に派遣されて以降の話は、これまたこの小説と同じ作者の『武揚伝』とかぶるところが多いです。
『武揚伝』でも描かれたのと同じ逸話(例:中島さんが榎本釜次郎に蘭語の教授を依頼する場面)が中島さんの視点で描かれているので、ちょっとしたスピンオフです。
「教授料を支払う代わりに、何か自分が榎本のためにしてやれることもあるだろう。」という一文がありますが、『くろふね』では中島さんが釜さんにしたことは具体的には書いていません。
でも『武揚伝』を読まれた方には中島さんが釜さんに何をしたかはお分かりになりますよね(笑)

でも、中島さんが機関長として開陽丸に乗り込んだ以降から、急ぎ足の展開になってしまっているのがとても残念です。
開陽丸の国内での短期間(涙)の活躍や箱館戦争について『武揚伝』をはじめ、他の小説や歴史書で読んでいるので、尚更そう感じられるのでしょう。
箱館での逸話はほんの数頁です。個人的には中島さんが参加した箱館の咬菜園での句会も入れてほしかったです。(※)
それで初めにも書きましたが、冒頭にあった中島さんの戦死の場面を最後に持ってくれば、尻つぼみな終幕にはならなかったと思います。

少々気になる点もありましたが、『くろふね』は中島三郎助に興味のある方にはぜひ読んでいただきたいです。
ますます中島さんへの好感度が増すこと間違いなしです。
わたしはすっかり中島さんのファンになりました。(小栗さまと言い、どこまでも渋好みなわたし…)

この先は『くろふね』とは直接関係ない、中島さんの話です。

◇中島さんは天然理心流を習っていたそうです。
天然理心流は武州多摩中心の武術でしたが、浦賀にも天然理心流の道場があったのか、もしくは門人が浦賀に出稽古に来ていたのでしょうか。
もしかしたら、箱館で歳さんと中島さんは天然理心流の話をしたり、手合わせをしたかもしれませんね。

※箱館の咬菜園(跡)は2月に箱館に行った折に行きました。
元町の弥生坂の上にあります。
わたしが行った時は箱館には雪が全然積もっていなかったので、坂の上まで歩いて行けましたが、いつもの冬だったら絶対に行くのは無理だったと思います。(弥生坂の上の方はものすごい急坂です)
咬菜園(跡)にあった説明板によると、「榎本武揚は明治2年3月14日に幹部6人と、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた」とあります。中島さんはこの時に辞世の句を残しました。

「ほととぎす われも血を吐く思い哉」
「われもまた 死士と呼ばれん白牡丹」 木鶏
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まやこ

Author:まやこ
2月27日生まれのうお座・AB型

舞台や展覧会を観るのが好きで、仏蘭西と西洋史をこよなく愛する歴女です。(や○い・BLは好きではないので、腐女子ではないようです(笑)

2006年の元旦に「新選組!!土方歳三最期の一日」を見たのがきっかけで新選組副長、土方歳三のファンになり、幕末の世界に足を踏み入れ、全身どっぷり漬かっています。
土方歳三だけでなく、榎本釜次郎武揚、小栗上野介忠順、中島三郎助も贔屓にしています。
彼らの足跡を追って、山の奥や海の彼方にも行きました。

ブログのタイトルは仏蘭西語です。意味と由来はこちらをご覧ください。

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結婚に伴い、長年住んでいた武州多摩郡某村(甲州道中沿い)から武州久良岐郡(横浜市南部)に引っ越したが、2014年6月に夫の仕事の都合で台湾南部の高雄市に住むことになりました。

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