Le régiment H ─ル・レジマン・アッシュ─

台湾・高雄市から土方歳三と榎本武揚を想いつつ、幕末と江戸時代ににまつわる話題を書いています。

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浦賀巡り(その1)

愛宕山から臨む浦賀の海
今日は浦賀に行って、中島三郎助のゆかりの地を巡ってきました。
画像は中島さんの招魂碑のある愛宕山公園からの眺めです。
浦賀文化センターに展示されていた中島さんの手紙を読んで泣いてしまいました…

↑例によって上の文は携帯からの投稿です。
この先はPCから投稿します。

浦賀はペリーが来航した港町としてよく知られていますが、『武揚伝』(佐々木譲)を読んで浦賀奉行与力・中島三郎助に興味を持ち、更にままこっちさんの浦賀巡りレポを読んで、浦賀と中島三郎助の深い関係を知ってから、いつか浦賀に行こうと思っていました。
今日の浦賀は史跡巡りにふさわしい、本当にいい天気でした。
浦賀行きのお供に中島さんの生涯が紹介されている『幕臣たちと技術立国』(佐々木譲)を携えていきました。

浦賀湾はうなぎの寝床(と言って若い子に通じるのか?)のような細長く、湾の一番奥に浦賀ドック(現在は稼動停止中)があります。
そして、浦賀の町は湾を挟んで、東と西に分かれています。
江戸時代は東側は干鰯(ほしか・イワシを乾燥して作った肥料)問屋、西は塩問屋が立ち並んで栄えたそうです。
浦賀奉行所は西浦賀にありました。
詳しくは「浦賀の歴史とふれあう散策ルート」をご覧ください。

今日のルートは以下の通りです。ルートマップはこちらです。
(東)は東浦賀、(西)は西浦賀です。

浦賀駅→大衆帰本塚(西)→浦賀文化センター(西)→浦賀の渡し→マリンポート・コーチヤでランチ(東)→東叶神社(東)→東林寺(東)→愛宕山公園(西)→浦賀奉行所跡(西)→ペリー公園&ペリー記念館(久里浜)

浦賀ドッグ(住友重機械工業(株)浦賀工場)は現在は稼動していませんが、工場を囲む塀には地元の中学生による壁画ががかかげられていました。
浦賀ドックの壁画(中島三郎助)

これは中島さんが建造した鳳凰丸ですが、他にもお約束のペリー、勝海舟&福沢諭吉、榎本武揚&渋沢栄一、ヴェルニーの壁画もありました。

浦賀駅を背に、浦賀ドックを左手にして海沿いの道をしばらく歩くと、某ドラッグストアが見えてきます。隣りは浦賀警察署です。
その脇に元治元年(1864年)に建てられた大衆帰本塚の碑があります。
この石碑はこの辺りが開発される以前の様子が、中島さんの文章で書かれ、しかも中島さんの筆致がそのまま刻まれています。
木鶏(中島さんの俳号)の筆致は繊細でした。(画像が見づらく申し訳ありません)
大衆帰本塚の碑

GW中なので、事前に浦賀文化センター(郷土資料館)に電話してみたところ、休みは第3日曜日のみだそうです。
1階には新聞記事中心ですが、会津藩関連の資料がありました。
会津藩は19世紀初頭、江戸湾守備のため観音崎台場に常駐していました。今回は行きませんでしたが、観音崎エリアには会津藩士のお墓のある寺がいくつもあるそうです。
また1階には浦賀の史跡巡りのパンフレットや、浦賀・横須賀・三浦半島エリアの地図が色々と置いてあるので、史跡巡りの前に立ち寄るのがベストだと思います。

2階の展示室には浦賀奉行所関係の資料や模型、幕末の浦賀に来航した外国船の紹介(ペリー艦隊だけではありません)、そして中島さん関連の資料が展示されています。
ここでも写真を撮りましたが、撮影OKだったか確認してこなかったので(汗)ブログにはアップしません。

幕末の浦賀に来航した外国船の資料で目を引いたのは、中島清司(三郎助さんの父)が描いたイギリス船サラセン号(だと思う)の絵です。
日本人が描いた洋鑑の絵は多々残されていますが、実際の船に比べるとずんぐりむっくりに描かれています。(開陽丸で実感^^;)
でも、中島清司の描いた船の絵は、写実的で細かいところまでしっかりと描かれていて、他の外国船の絵とは一線を画していました。

もちろん浦賀奉行所の模型も見ました。
建物の数と、この後訪れた奉行所跡の敷地の大きさから察するに、浦賀奉行所は箱館奉行所よりは規模が小さそうです。
浦賀奉行所と共に中島さんの家(与力宅)の模型もありました。
安政2年(1855年)に桂小五郎が浦賀の中島さん宅を訪れ、洋式造船術と西洋兵学を学びたいと、中島さんに弟子入りを志願しました。
中島さん宅の模型のキャプションによると、中島さんは自宅の裏の漬物を置く二畳半程の小屋に床を張り、桂小五郎はここで約4ヶ月寄食したそうです。

中島さん関連のコーナーには、彼の手紙が2通展示されていました。
1通は1868年10月(旧暦)に南部宮古から妻宛に送った手紙。
もう1通は1869年3月(旧暦)に家族宛に送った手紙です。

1868年10月に宮古というのは、中島さんが2人の息子と共に旧幕府海軍(榎本艦隊)に身を投じて、開陽丸で蝦夷に向かって北上していた途中です。
手紙によると、この時点で中島さんは死を覚悟しています。
家族、特に末息子の與曽八の成長を気にかける記述の後に、「万が一、私と息子たちに何かあったら、浦賀に墓を作ってほしい」(という内容)の文につなげて、「中島三郎助」と自分の名前の入った墓の絵を描いています(涙)

1869年3月の手紙は遺書です。
冒頭に與曽八に形見として短剣を託すと描かれています。與曽八は当時2歳だっそうです。
文章の大意は
◇病身でありがなら、49年も生きることができて幸せであった。
◇與曽八が成長した暁には徳川のためにつくしてほしい。(成長した與曽八は、日本海軍関連の仕事についたそうです)
実母に追伸として
◇先立つ不幸をお許しください。

繊細な筆致、最後まで家族、特に末息子を案じていた中島さんの人柄が感じられ、わたしはこの2通の手紙を読んで泣いてしまいました。

手紙(というか遺書)は複製でしたが、木鶏直筆の俳句の短冊が2つ展示されていました。
どうやら、俳句は豊玉さんより木鶏さんの方が上手かったようです(笑)

また、複製ですが中島さんの写真も数枚展示されていました。
中島さんの写真で一番知られているマントを羽織ったものだけでなく、長男と一緒に撮った写真もありました。
幕末に撮影された写真で親子二人で写っているものは初めて見ました。

しんみりした気分で浦賀文化センターを後にし、浦賀の渡し(西渡船場)に向かいました。
浦賀の渡しは東浦賀と西浦賀を結ぶ渡し舟で、海の上の市道です。
時刻表は特にないので、舟が乗り場にいないときは待合室にあるブザーで舟を呼びます。昼休み中でしたが、対岸にも客がいたので対岸から来てくれました。
浦賀の渡し

そして、2分間で対岸の東浦賀に着きました(笑)

浦賀の渡しで東側に渡ってから、お腹がすいていたので「マリンポート・コーチヤ」に直行しました(笑)
ここはマリーナですが、レストランが併設されています。
レストランではカウンター席から浦賀の海を一望しつつ、ペリーシチューを食べました。
角切りビーフがじっくりと煮込まれたシチューは美味しかったです(^o^)
そして、お腹一杯になったので、東叶神社に向かいました。
この神社の裏山で勝海舟が咸臨丸で渡米する前に断食祈願したそうで、「ホントかよ~」と毒づきながらも行ってみました。

浦賀巡り(その2)に続きます。
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*Comment

NoTitle 

まやこさん
文化センター、去年行きたかったんですが休館日の可能性が高く、寄りませんでした。本当は奉行所の模型なんかも見たかったんですけどね。
浦賀と聞いただけで泣いちゃいそうです。。それくらい「中島三郎助」な街、ですよね、浦賀は。。(涙)
  • ままこっち 
  • URL 
  • 2007年05月06日 00時21分 
  • [編集]

NoTitle 

ままこっちさん、こんばんは。

浦賀では随所で中島さんの面影を感じました。
文化センターに展示されている中島さんの遺書は涙なくしては読めませんでした。
ままこっちさんのコメントを拝見して、きちんとした浦賀レポを書く気になりました。
現在、わたしにしてはハイペースで執筆中なので、読んでいただけるとうれしいです。
  • まやこ 
  • URL 
  • 2007年05月06日 23時02分 
  • [編集]

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まやこ

Author:まやこ
2月27日生まれのうお座・AB型

舞台や展覧会を観るのが好きで、仏蘭西と西洋史をこよなく愛する歴女です。(や○い・BLは好きではないので、腐女子ではないようです(笑)

2006年の元旦に「新選組!!土方歳三最期の一日」を見たのがきっかけで新選組副長、土方歳三のファンになり、幕末の世界に足を踏み入れ、全身どっぷり漬かっています。
土方歳三だけでなく、榎本釜次郎武揚、小栗上野介忠順、中島三郎助も贔屓にしています。
彼らの足跡を追って、山の奥や海の彼方にも行きました。

ブログのタイトルは仏蘭西語です。意味と由来はこちらをご覧ください。

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結婚に伴い、長年住んでいた武州多摩郡某村(甲州道中沿い)から武州久良岐郡(横浜市南部)に引っ越したが、2014年6月に夫の仕事の都合で台湾南部の高雄市に住むことになりました。

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